日本国․花園大学校名誉敎授․禪文化研究所所長 西村惠信
一、
「不立文字、敎外別傳」を標榜する禪宗にとって、依るべきのは経典祖錄ではなくて「直旨人心、見性成佛」の實參實究明である。禪の歴史を形成してきたものは、過去から伝えられたものではなく、却って祖師たちが伝えようとして伝えられなかったもの、すなわち「佛祖不傳の妙道」を伝えなければならない。この「不傳の伝」あるいは「非連續の連續」こそ、禅宗が持ち得る「傳燈」の獨自性であろう。
禅は直接に傳達されるものではない。一人ひとりが自己の身上において、ダルマや六祖の禅心を「追體驗」するものでなければならない。釋迦やダルマは過去の者ではない。卽今目前の自己の脚下に、釋迦やダルマは生き生きと現在も修行中である。われわれ禅の修行者は、自己の存在の底を掘って自己の外に出て、そこね生きている釋迦やダルマや六祖と相見しなければ、禅の傳燈は形骸だけとなって消滅してしまうであろう。
したがって過去1400年のあいだ佛陀の慧命がどのように伝えられたか、そして今後どのように伝えられていくかということこそが、今後禅宗存立のもっとも重要な課題である。禅宗の敎義や思想の内容が問題ではない。それとはまったく別次元において、佛陀の慧命をいかに正確にこの自己の身上を通して「受け取り直す」し、未来に向かって「直伝」していくか。これこそが祖師の門庭に立つものに与えられた根本的課題でなければならない。
このような使命をもって、中国の禅は韓国や日本に伝えられたのであり、またいま歐米諸國に伝えられつつある。これはいわゆる文化傳達のように、国から国へとか民族から民族へと集團的レベルにおいて伝えられたのではなく、どこまでも個人から個人へと、「以心傳心」されてせ今日に及んだ類いまれな人類の遺産であると言えるであろう。
『中外日報』の報道によれば、去る九月二十四日から一週間、慶尙南道の統營市にある冥想修練院において、韓国では初めて日本の公案禪の伝統的攝心が行われたと言う。師家は日本臨濟禪の大本山向嶽寺の管長宮本大峰老師で、初めて伝統的な公案禪の入室參禪も行われたといい、近い将来、二~三名の韓国禪僧が来日して、向嶽寺の専門道場に掛搭すると報じられている。
私も花園大学校で多くの韓国曹溪宗の禪僧に学問的指導をしたが、彼らのすべてが日本臨済禪に伝統的に伝えられている「白隱下の公案禪」に深い関心を寄せていたことを知っている。
昨年、遷化された白羊寺の李西翁老師も若い日、東京花園大学の前身である臨済学院専門学校において日本の臨済禪を研究し、続いて臨済宗妙心寺派の専門道場に掛搭して、白隱の公案禪に參じられたのである。
さてまず最初に、日本や欧米諸國で今日實踐されている「公案禪」が、どのようにして成立してきたか、その歴史的背景は次の通りである。
二、
中国禪が日本へ傳播されのは十三世紀のころである。もちろんそれまでに七世紀の終りから八世紀の初め頃、つまり日本の奈良時代や平安時代に、「禪」も他の敎宗とともに伝えられたが、この頃の禅はいわゆる「止觀坐禪」のことで、淨土系念佛も坐禪とともに実践されていたのであって、禅宗として独立したものではなかった。
また栄西や道元が純粋に禅宗を宣揚する直前、大日能仁という人が「日本達磨宗」を標榜したが、彼の師承を証明するものがないことによって、人々に受け入れられないので、自分の弟子を宋の国に派遣して書面で見解を呈したことがある。
日本臨済宗の祖と言われる明庵栄西(1141ー215)は、舊佛敎の批判を恐れて密敎を兼修したので、これもまだ純粋の禪であったとは言えない。純粋の禪を始めたのは、日本に曹洞宗の黙照禪を伝えた希玄道元(1200ー1253)をもって嚆矢とすべきであろう。
この日本曹洞禪は今も日本佛敎では最大規模の敎團を形成し、道元の宣揚した「正伝の佛法」は連綿と続いている。言うまでもなく道元の伝えた曹洞禪は、宏智の黙照禪の系譜であるから、現在においても公案を捻る拈提したり、見性体験を求めたりせず、ただ「本證秒修」の理論に基づく威儀卽佛法、作法卽宗旨の生活に徹している。従ってこのような曹洞禪は修行の面においても、中国叢林の風をそのまま厳格に維持し、日本的な変容を加えていないところに特色がある。その点、大慧の看話禪を繼承しつつ、しかも日本独自の修行法へと変容した白隱は、道元の曹洞禪を「黙照の邪黨」と口汚く批判したのである。
ところで鎌倉時代から徳川初期にかけて、日本の留学僧と中国の來朝僧によって、宋元明の国から日本に伝えられた禅宗は、四十六人の禅僧たちによって伝えられ、これらのうち嗣法の弟子ができて、法孫が流派を形成したものが二十四流派あったので、これを「二十四流、四十六伝」と言う(徳川初期の釋半人子選述『二十四流宗源圖記』による)。
この四十六伝の禅僧のうち、希玄道元(1200ー1253),東明慧日(1272ー340)東陵永璵(?ー1365)という曹洞禪者を除いて、他の禅僧はすべて臨済禪の法脉を嗣ぐ人ばかりである。
その二十四流の日本の臨済禪も、今日残っているのはただ「大応派」と呼ばれる一流だけで、あとはすべて徳川時代に断滅してしまったのである。どうしてそうなったのかといえば、ほとんどの禅僧は鎌倉․室町時代に幕府の篤い外護を受け、宋の五山に倣って開倉されたいわゆる「五山の官寺」に住持として迎えられたため、禅林の生活が次第に文化的な空間となり、本命であるべき坐禪修行が疎かになって禅僧としての力が弱体化していったからである。
ところが大応派(大応国師(南浦紹明、1235ー1308)の禅は、大燈国師(宗峰妙超、1282ー1337),無相大師(關山慧玄、1227ー1360)へと確実に傳授され、後に徳川時代の中頃にこの大応派から白隱慧鶴(1685ー1768)が出て独特の公案禪を確立し、これが今日の日本臨済禪となって発展したのである。
この妙心寺を基点とする一派は「応灯関の一流」と呼ばれ、五山の官寺として待遇を受けることがなく、「山隣派」として枯淡淸貧の生活に甘んじて、ひたすら坐禪修行に勵んだために、逆にその命脈を繋ぐことができたのである。そしてその系統から、思いがけなくも「五百年間出の人」と言われ、「日本臨済禪中興の祖」と仰がれる白隱慧鶴が出たのである。
三、
白隱による日本禪への貢獻として、二つの事実を挙げなければならない。第一は叢林修行に於ける「公案體系の確立」であり、第二は世俗世界に対する熱心な「民衆敎化」である。まず候者について先に述べる。
白隠は大本山妙心寺からの招請があったにもかかわらず、臨濟宗敎團を代表するような地位につくことを拒みつつ、生涯を自分の生家のある原の宿場町(現在の静岡県沼津市原町)にある小庵「松蔭寺」に止住し、ここを根據として全國から集ってくる雲衲の參禪を指導し、傍ら各地の禅寺からの招請に応じて曵杖し、僧俗のために祖錄の提唱をなし、八十四歳をもって大吽一聲して、この世を去っていった。
白隠はまた他の禅僧に見られないほど多くの著作や、外護の檀越に対して禪の要諦を述べた手紙を多く残している。それらの手紙を編んで一本としたものを含めると、著作は膨大で、それらの内容は次の五種類に分けられる。
1、自分みずからの伝記、經歷、體驗などを具體的に書いたもの。『夜船閑話』、『壁生草』など。
2、漢文で書いた難解な著作で、白隠自身の禪体験を伝統的な禪文学形式で書いたもの。『荊叢毒蘂』、『槐安国語』、『寒山詩闡提記聞』、『寒林貽寶』など。
3、白隠が創作した「隻手の公案」や、禪と念仏の相違を在家信者のために易しく説いた日本語文の著作。『薮柑子』、『遠羅天釜』など。
4、一般庶民に禪の本質を分かりやすく、しかも面白く説いた仮名法語。『おたふく女郎粉引き歌』、『大道ちょぼくれ』、『見性成仏丸方書』、『善悪種蒔鏡』など。
5、觀音信仰をすすめるもの。『八重葎』、『延命十句觀音經靈驗記』など。
これらの他に白隠には多くの断編の著作もある。このような著作類とは別に、白隠はどの大膽奔放な絵画や墨跡によって知られている。
これらを見ても白隠がいかに禪の民衆敎化のために努力をしたか分かる。その精力的な敎化の努力は、日本の禅宗祖師のなかで他の追隨を許さない質と量の禪的文化遺産となって、今日もなお日本国内のみならず、欧米諸国にまで大きな影響を与えている。
さて、白隠の日本臨濟宗史に於ける功績は、何と言っても徹底した「見性第一主義」の思想とその修行方法としての「公案體系」の確立である。言うまでもなく白隠の看話工夫の先蹤は、中国宋代に大慧宗杲によって創出された「看話禪」にある。
中国の禪林は宋代になると知識階級や行政官僚たちの外護を受け、それがいわゆる「士大夫禪」よなって貴重な禪文化遺産を産み出したが、そのため他方唐代禪の發揮した平常的大地性を失い、禪者たちは禪的創造性を失っていった。
大慧宗杲は活力を失った禪を復興するため、「悟りを以って法と爲す」という「見性經驗第一主義」を標榜し、坐禪と理論を力說する宏智正覺(1091-1157)の一派と思想的に対立したのである。大慧は僧俗の学人を見性經驗に導くために、唐宋の禪者の語錄や伝記を広く涉獵し、その中から「古則話頭」を選び出し、これを「公案」(公府の安牘の略)として悟境の鑑とさせたのである。
日本の臨濟禪はその移入された當初より、宋の看話禪の系統を引き繼いだので、その文化性は極めて高く、鎌倉や室町の武士階級に大いに歡迎されたのである。それと同時に、元寇の日本への侵略という國難に直面していた鎌倉幕府の将軍たちは、厳しい坐禪修行によって肚を鍛え、悟りによって妄想を拂拭し、無心で自由な生き方をすることによって、「臨濟將軍」と評された力強い臨濟禪をみずから実践したのであった。
日本では南北朝時代から戦国時代にかけて、日本全国に戦国武将が群雄割據し、彼らは寺を建てて祖先の霊を祀るとともに、禅僧を師として禪文化を楽しみ、且つ坐禪を実践して心膽を練った。
このように地方の武士階級と交流をもったのは、ほとんどが妙心寺に據點を持つ関山派の禅僧たちであった。これが現在日本の臨濟宗のなかに妙心寺派寺院が際立って多くの数を占めている理由である。
徳川時代の中期になると、五山の叢林は文化生活に溺れ、禪の法派を嗣ぐものがなくなり、お互いが交代 交替して会場を受け持つ「連環結制」と呼ばれる結制安居を開催したが、その指導に當たる宗師家さえ不足し、やむを得ず関山派から師家を招聘せざるを得ない狀況になった。中世には五山の官寺であったよう京都や鎌倉の禪寺が今も甍を張って多くの觀光客を迎え入れているが、その境内の片隅にある専門道場の師家は、どこも例外なく白隠下の公案禪の法孫であるのはまことに皮肉な事実と言わなければならない。
四、
白隠は近世人らしく、禪の修行方法においても、それまでになかったような合理的な方法を編み出した。それが公案の「體系化」ということである。禅の修行過程にカリキュウラムを設け、これに沿って一つ一つ階梯を登らせ、やがて見性經驗へと導く仕方は、曹洞宗から「梯子禪」として侮られた。
修練友見える厳しい坐禪修行によって、學人を見性體驗に導こうとする白隠の指導方法はきわめてストイックなもので、從來の叢林のように悠長なものではなかった。「勇猛の行者は成佛一念にあり。懈怠の衆生は涅槃三祇に亘る」と教え、敵の陣中を馬に騎って寶物を運ぶように、勇猛心をもって公案工夫に取り組まなければならないと教えた。
黙照禪の勸める「只管打坐」(見性を目的とせず、ただ静かに坐るだけ)では、一生掛けても見性の歡びは得られないと說いた。見性經驗を得ることこそが看話禪の本領であるから當然その修行の方法は激しく、修行者は死を覺悟しなければならないと教えたのである。
したがって「大死一番、絶後蘇生」という轉迷開悟の大轉換が看話禪修行の頂點であり、実際に修行者は意識が絶滅するところまで追い込まれ、その結果の大歡喜を味わうことが出来たのである。
ところで修行者が自己において大死一番の体験するためには、よほど公案工夫三昧になければならない。そのためには課題としての公案への疑いが深まり、やがて修行者自身が疑いの塊り、つまり「大疑團」とならなへればならない。
かつて大慧が「大疑の下に大悟あり」と教えたように、中国禪の初期禪者たちは人生と世界の無常性について大きな疑いを抱いて禅門を敲き、自己の疑いを突破超越するために言語道斷の修行をしたのである。その例は中国明代の雲褄株宏(1535-1615)が編んだ『禪關策進』に多く見られるであろう。
唐の禪者たちは無常についての深い宗敎的懷疑を抱いて禅門を敲いたが、大慧は作爲的にそのような古人の「古則話頭」を懷疑の對象として門人の前に提起し、これに全身全嶺靈參究することによって、日常的な自我を突破超越する手段を創造したのである。
日本の看話禪が入ってきた時から、看話禪の用いた多くの公案には、三つのカテゴリーに分けられていたようである。そのことについて聖一國師(圓爾辯圓、1202-1280)は、次のように述べている。
佛組出興して、理致あり、機關あり、向上向下あり。……直に佛祖の理致․機關を超ゆ。いわゆる佛の理致を超えて荊棘を過得し、祖の機關を超えて銀山鐵壁を過得して、はじ めて向上本分の事あるを知らむ。(『聖一國師語錄』)
また大応國師は言う。
この宗に三重の義あり、いわゆる理致․機關․向上これなり。初めの理致というは、諸佛 の諸說、ならびに祖師の心性等の理語なり。つぎに機關というは諸佛祖師の眞の慈悲を垂 れて、いわゆる鼻をひねり眼を瞬(たじ)ろがして、乃ち云く、『泥牛空に飛び、石馬水に入る』等これなり。後の向上というは、佛祖の直說、諸法の實相等、いわゆる『天はこれ天、地はこれ地、山はこれ山、水はこれ水、眼は横、鼻は直』等これなり。(「大応國師法語」)
これらを見ると、公案として採用された古則話頭には大きく分けて、佛祖の說かれた言葉の意味を追求するもの(理致)、見性悟道した祖師たちの日常の作用に意味に迫るもの(機關)、それらを解決したあと現實生活のなかに法を見ること(向上)の三種類に分かれていたことが分かるであろう。
白隱はこの三種の公案群をさらに細分化し、看話修行を一層效果的にしたのである。彼は大慧の『正法眼藏三百則』等に見える古則話頭を、禪心の深化にとって效果あるように配列し直し、それらの話題の一つ一つを「本參の話題」として段階的に參究させる方法をとったのである。
今日、日本臨濟禪の道場で行われている「公案の調べ」もこれにならって以下のように段階的になされている。
1、法身…宇宙の本体、あるいは眞の実在は何であるかを探求する公案。禅で言う「自己の心性」とか「本来の面目」とかいうものは何かをはっきりさせるのである。
2、機關…「法身」で得た見解を、如何に日常差別世界の中で活かしていくかを追求させる公案である。
3、言詮…悟りの内容を如何に言句で表現するかを養うための公案である。それには『楞伽經』に說く「宗通」と「說通」との二種類がある。また、「言詮」の公案には、佛祖の 如何なる言句にも惑わないような眼力を養わせるものもある。
4、難透…爲人度生するために、悟りの境涯を練りにあげるための公案である。大慧が「大悟十八回、小悟その数を知らず」と言っている通りである。
5、向上…すでに得た悟りの境地をすべて抜き去り(禪では「破家散宅」という)、學人を悟り鬼窟裏から引き出すための公案である。こうして「悟了は未悟に同じ」の境地を磨かせるのである。
6、洞上五位…中国曹洞禪の理論である「偏正五位」を用いて、今までの悟りの内容を理論的に點檢させるための公案である。
7、十重禁械…三聚淨戒や十重禁戒(禪では「佛心宗正戒」とか言う)を、禪の立場から検討しなおし、日常生活の中で如何に戒を持していくかを練り上げる公案である。
8、未後の牢關…これには特に定まった公案は無く、例えば「『臨濟錄』を一句で言え」など、師家の室內によってそれぞれ異なる。修行過程にお於ける「最後の一訣」をはっきりさせる公案である。
五、
さて、このような白隱創作の公案體系による禪修行のプロセスに沿いながら、白隱禪修行の方法を懇切に論じたものに、白隱の高弟である東嶺圓慈(1711ー1792)の撰した『宗門無盡燈論』一券がある。
その内容は、宗由第一、信修第二、現境第三、實證第四、透關第五、向上第六、力用第七、師承第八、長養第九、流通第十という十項目に分かれているので、以下その順序に沿って述べることにする。
「宗由第一」では、「臨濟宗の由来」を説明する。白隱禪が佛陀より嫡々相承されてきた正伝
の佛法を受け続くものであることを明かにするのである。佛心宗を標榜し、佛陀の慧命を嗣ぐ事を一宗成立の根本とする禅宗に於いて、「傳燈の由来」明かにすることは、もっとも重要なる宗門存立の証明である。
しかし禪道修行というものは、修行者一人ひとり自己関係に始まり、その結果としての自内證もまた自己自身の内における「自受用三昧」として門外不出であるから、悟りの歓喜は他と共有することができない。その意味で禪はあくまで個人に屬することがらで、如何に各人の体験を羅列しても禪の歴史は形成されない。
しかも東嶺が「宗由」を第一とする理由は、禅宗の歴史としての「傳燈」の重要性を尊重するからであり、たとえ禪というものが「己事究明」の宗敎として個人の実在に関わる「事」であっても、それは同時に伝灯の仏祖の己事究明と「同事」の「事」に他ならない。したがって伝統禪は自己本立の「舞師獨悟」禪であってはならないのである。
たとえば「祖師西來意」と言っても、それは他ならぬこの自己の「意」であって、決してインドからやってきた歴史的出来事を指すのではない。それゆえ「宗由」には二重の矛盾する要素が含まれている。
一つは禅宗史を形成した歷代祖師の羅列によって禪の流れ(伝灯の系譜)を明かにすること。しかもこの場合、ただ祖師たちの伝記を編年史的に記述するのではない。
一人ひとりの祖師の代表的な話頭を連ねることによって、禅宗の歴史というものは、常に一人ひとりの祖師によってなされた自己の根本への回歸の歴史でなければならない。そういう意味では「宗由」は、単に時間的な由来ということではなくて、「宗の源由」と言う意味を指している。
たとえば東嶺は自分の師である白隱について述べるとき、「祖門もし汝(師の白隱を指す)無くんば好し、宗風の流通するに」(もし貴方さえ居なかったら禅宗はもっと良かったであろう)などと危険な書きかたをしている。東嶺はこういうして禅宗の歴史の流れを切るような勢いを見せている。ここに『無盡燈論』の編者東嶺が「見、師に過ぎて、まさに傳授するに耐えたり」(『傳燈錄』卷十六、巌頭章)とする伝灯の本質を覗かせているのを見ることが出来よう。
「信修第二」では、禪道修行の基礎條件としての「大信根」と「大誓根」についた述べている。信と願とは大乘佛敎の基本であるから、たとえ自力聖道門の禅宗であっても、これら二つは修行の前提條件でなければならない。しかしその内容は他力淨土門のそれとは大いに異なるであろう。
つまり禅宗での「大信根」は、あくまで對照的な信ではなく、修行全體を遂行するための主体的根拠であるということである。
「信」は修行のための先行条件でなければならないとともに、修行の過程全体を支える根本条件であるという二重性を備えている。「大誓願」もまた修道達成のための誓願であるとともに、「衆生無辺誓願度」として修行全体の根拠律でなければならない。
「現境第三」からは、座禅修行の実践段階における諸問題に対する、東嶺の親切な指示である。「現境」は座禅修行が深まるにつれて現れる「魔境」のことである。魔境については早く『大般若經』初会第四十品や『首楞厳経』卷十等の経典に説かれており、初期仏教の禅定においても危険な境位として注意せられたのである。
いわゆる「道高ければ魔盛んなり」(『座禅儀』)と言われるものであるが、特に「善境界」と言われるものは、座禅によって起こる「法空」の見、「一味平等」の見、「現成底」の見、「当体即是」の見というような「勝境」で、修行者はそのような見を仏陀の「正見」と思い誤る危険があったのであろう。
この錯誤によって修行者は、「心源潛寂」、「平常無事」、「不立一法」、「仏祖の言教」というような安易な理解のために、真の大智への道を見失ってしまうことを東嶺は誡めているのである。
「実証第四」は、看話禅修行の眼目とするところの「見性体験」そのものである。転迷開悟の宗教体験がなければ看話禅の伝灯はその命脈を失ってしまうであろう。白隠の公案禅において、「一斬一切斬」、「一染一切染」という自己の迷から悟への一回的な大転換に修行者は、自己の全生命を賭けるのである。単なる証悟ではまだ入り口であって「悟中の迷」あるいは「迷中の悟」を残していて、「実参実悟」になっていない。
そのために修行者は「正師」(あるいは明師)を必要とする。故に東嶺は「学者纔に見性を得れば、先ず須らく明師に参じて、悟中の迷を除くべし」と書いている。こうして修行者は経験の事実として自己の身上において仏陀の大覚を「実証」しなければならないのである。
「透関第五」は、悟りによって得た自内証を、仏祖の話頭を鑑として点検しなおすことで、ここに至って初めて「看話」の意味がある。臨済禅では一つの公案解決で満足することを「一枚悟り」と言って批判する。現在の臨済禅では、一口に「千八百則の公案」と言うが、この数は伝灯録に登場する祖師の員数に過ぎないのであって、実際にはそれほど多くはない。
しかし先にも見たように、公案にはそれぞれ機能を異にしたグループがあって、悟りの内容をさまざまな視点から点検しなおすようになっている。繰り返して言えば、悟境を明かにするための公案が「理致」であり、一切を「一味平等」と見る「見上の塵抄」を取り除いて、日常差別の妙境を徹証させるものが、「機関」の公案である。
そうは言っても、雲門文偃(八六四一九四九)が「平地上に死人無数、荊棘林を出得する者はこれ好手」(『雲門広録』卷中)と言っているように、仏祖の関門を一々透過することは極めて至難で、多くの者はその途上で命を失うというほどである。
現在日本の臨済禅者の間でも、祖師の関門を無事に「透過」し尽くす者は、わずか「一箇半箇」(一人か半人しかない)に過ぎないと考えるのが常識であり、そのため傳燈の禅者に対する尊敬の態度は尋常なものではない。
次に「向上第六」は、「証上の修」と言われるもので、「百尺竿頭に一歩を進める」消息である。すでに古来より理致、機関の上に「向上」が置かれていたことを見たが、見性の後には、更に「些子向上の一路」という、それまでの経過とは全く異質な修行の道が待ち受けている。
「一歩」とか「些子」と言う語が示すように、この一路は連続的の推移する深化の道とはまったく異質な境位への突破超越である。看話禅の修行というものが、梯子を登るように連続的な階梯であるとすると、「向上」はそれらの努力をまるで無かったことのように無意味にしてしまうことである。いわゆる「悟了は未悟に同じ」(『伝灯録』卷一、第五祖提多迦章)と言われるような、平常無事の世界への回帰である。
しかしこの更なる向上(その先の意味)の一路は、古人が「向上の些子、千聖不伝」と言っているように、千聖も伝えることの出来なかったものに参じることである。伝えようとしても伝えることが出来ないものは、言行以前の仏祖の実存である。それは修行者自身の実存にほかならない。
そういう仕方で修行者が仏祖を超えることである。ここにおいて修行者は「深く柴門を閉じて、千聖も知らず」(『十牛図』第十序)の境位に歸嫁穩坐するのである。いわゆる「超仏越祖の談」と言われる世界であろう。
東嶺によれば、例えば「狗子無仏性」の公案は、修行者を禅門に導くための初関であるが、一度この公案によって「性地に入得した者」(仏性の事実を実証した者)に対して与えられる「向上」の公案であって、決して「小事」(初歩的なもの)ではないのだと言う。故にこの「向上」の一路こそは、仏祖に参じるそれまでの修行に比べると、更に困難な道と言うことになるであろう。
『宗門無尽灯論』の論述は更に「力用第七」(禅者に日常の中での作用)、「師承第八」(師から弟子への法の伝達)、「長養第九」(修行者が世間から隠れて更に悟境を養うこと)、「流通第十」(禅を世間に広めて民衆を教化すること)と続くのであるが、これらはいずれも修行の後の法の伝授と禅法流通のための課題であって、「果行格」(因行格に対し、見性経験の後の生き方を言う)に属するので、紙面の都合上ここでは割愛する。
六、
さて今回の発表の最後に、現在日本で行われている臨済禅修行の実際について述べて韓国禅學人の参考に供したい。
今日日本の臨済宗教団には全体を統括するような一つの本山はなく、歴史の過程において開かれていった地方の禅寺が、やがてそれぞれの門流を形成し、それが本山となって末寺寺院を統括し、一派を形成している。現在の日本臨済宗にはそうして出来上がった十四派の大本山がある。それらを列挙すれば以下の通りである。
大本山佛通寺 (廣島縣三原市) 開山愚中周及禪師
大本山天龍寺 (京都市嵯峨) 開山夢窓疎石禪師
大本山妙心寺 (京都市花園) 開山關山慧玄禪師
大本山大德寺 (京都市紫野) 開山宗峰明超禪師
大本山相國寺 (京都市今出川) 開山春屋妙葩禪師
大本山南禪寺 (京都市東山) 開山無關普門禪師
大本山建仁寺 (京都市大和大路) 開山明庵宋西禪師
大本山東福寺 (京都市東山本町) 開山圓爾辯圓禪師
大本山永源寺 (滋賀縣高野) 開山寂室元光禪師
大本山國泰寺 (富山縣高剛市) 開山慈雲妙意禪師
大本山方廣寺 (靜岡縣奧市) 開山無文元選禪師
大本山向嶽寺 (山梨縣鹽山) 開山拔隊得勝禪師
大本山建長寺 (膁瘡市山之內) 開山蘭溪道隆禪師
大本山圓覺寺 (膁瘡市山之內) 開山無學祖元禪師
黃檗宗大本山萬福寺 (宇治市) 開山隱元隆琦禪師
これらを統称して「臨黄十五派」と言い、その協議機関として「臨黄合議所」が設置されている。
臨黄十五派には、それぞれ本山の境内に七堂伽藍の一つとして僧堂(専門道場)が開単されたいるが、全国各地にも臨黄全体で二十四の地方僧堂が開単されている。それぞれの僧堂には一人ずつ師家が居て雲衲の指導をする。
師家は白隠禅の伝灯を嗣いだ本色の禅者であることを証明する「印可證明」を保持し、特に「老師」と呼ばれて尊敬される。その他、印可証明を有しながら僧堂の師家に迎えられず、地方寺院に住んでいる禅僧は「師家分上」と噂されるが、彼らは印可状を秘匿して見せないのが常識であるから、日本国内に何人の師家分上がいるか知ることは出来ない。
日本の臨済宗に属する七千の寺院(徳川時代に寺壇制度が確立して以来、それぞれの寺院は家族単位の固定した信者を持っている)があるが、各本山の『宗制』によって寺院の住持となるためには、必ずいずれかの僧堂において三年以上の修行生活を送ったことを示す「掛搭証明」を提示しなければならない。
臨済宗の僧堂修行はすべて白隠の公案禅であるから、臨済系の僧堂であればどこの僧堂へ掛搭してもよい。そのため僧堂の世間的評判によって、雲衲の数には多くて三十人、少なければ数人というような違いがある。
韓国などの場合と違って、修行者は師家を選んで特定の僧堂に入門すると、最後まで一人の師(参禅の師と言う)に就いて修行し、いわゆる南詢東請というような遊方歴参はしない。むしろ各地の僧堂に出入りする者は、「転錫者」として修行僧たちの間で批判的な扱いを受ける。この点は、遊方行脚が尊ばれてきた中国禅の精神を忘れた日本臨済禅の欠点ではないかと思う。
七、
僧堂の一日は朝西時の開静(起床)に始まり、夜九時の開枕に終わる。午前托鉢(市中の乞食)午後作務(労働)を基本とし、その余暇は坐禅をするのが原則である。
一年は五月より八月の「夏安居」(または雨安居)と、十一月から二月までの「冬安居」(または雪安居)とに二分され、各三ヶ月を「制中」と言って僧堂に止住する。二つの安居の間にはそれぞれ三ヶ月の制間(行脚の期間)があり、雲衲たちはそれぞれ僧堂を出て全国を行脚する。
「制中」の三ヶ月には毎月、七日間に亘る「摂心」(坐禪三昧の一週間)が、「入制大攝心」、「半夏大攝心」、「夏末大攝心」と三回に亘って行われる。特に一年に一回、十二月一日から八日までの一週間、全国のすべての臨済宗僧堂では、仏陀の成道を記念して一年中でもっとも厳しい「朧八大攝心」が行われる。この一週間は日常的な朝夕を告げる鳴物を止めて、あたかも一週間を一日として過ごす。したがってこの一週間は、二時間ばかりの「坐睡」を除いては、夜具を敷いて眠らず不眠不休の坐禅をする。これを「命取りの大攝心」と言われている。
因みに「攝心中」の日程を示すと、これは道場によって多少の違いがあるが、一般的には次の通りである。
3時30分、開静 (起床、雪安居は四時半)
3時40分、洗面(十分程度)
3時50分、朝課諷經
4時30分、坐禅
5時、粥坐(朝食)
5時30分、日天掃除(堂内外の清掃)
6時、入室參禅(老師の部屋に入って公案の見解を呈する)
7時、坐禅と提唱
10時、齋座(昼食)
13時、坐禅と入室參禅
16時、晩課諷經
16時30分、藥石(夕食)
17時、坐禅と入室參禅
21時、開枕(就寝)、その後各自堂外に出て夜坐(禅堂の外に出て樹下石上で独坐)。人によっては深夜に及び、また稀に徹宵夜坐をする者もある。
それぞれの大攝心の前には、準備のための「地取攝心」が、大攝心の後には「練り反し攝心」が行われる。
攝心の始まる前日と攝心の終わった翌日は、「把針灸治」と言って終日の休息が与えられる。またこれとは別に「四九日」と言って、毎日四日、九日、十四日、十九日よいうように、四と九の付く日には、剃髮し、堂舍の内外を大掃除し、五日振りの入浴をする。
臨濟宗の僧堂に於いては、公案修行に於いてもっとも大切な「入室參禪」が日常的に繰り返される。雲衲は一日二回(攝心中は五回)老師の部屋に獨參して、その都度与えられている「本參の話題」(公案)に対して自己の見處を述べなければならない。
千八百の公案の初関は「趙州無字」または「白隱の隻手」で、これを透過するためには普通三年は必要であるとされている。初関の見處が確かであればそれに続く千八百の公案は一瀉千里に透過出来ると言われるほどに、「趙州無字」や「隻手の音声」は、看話禪に於ける公案工夫のαでありΩである。
臨濟禪の道場に於いて入室參禪とともに重要なものは、師家による祖錄の「提唱」である。近世いらい日本各地で、諸国の雲衲を集めて「大会」と稱する移動の安居会が開かれたが、その中心となるものは當代一流の禪匠による「祖錄の提唱」であった。
故に大会には提唱される祖錄の名を冠して「六祖壇經會」、「臨濟錄會」、「碧巖錄會」などと稱したのである。
そういう特別の「大会」は、老師にとって祖錄の提唱によって自己の深い禪心を吐露すう機会であり、諸国行脚してそのような大会掛錫(旅の道具を掛撘して、安居其間中留まること)する雲衲にとっては、伝灯の老師から祖錄の提唱を聴くとともに、入室參禪をして禪心を練るよい機会となった。現在でも臨濟宗の道場の門標には、必ず目下提唱されている禪錄の名が書き出されているのは、その名残であろう。
僧堂では一切の讀書はもとより、ラジオやテレビ、そして新聞を読むことも禁じられている。時計も使わない。拂曉、日沒、就寢の三度、叩いて大きな音を出す木製の板を打ち、後の合図は鐘や太鼓の鳴物で行う。戸や障子を開けたり閉めたりする事も合図であり、自由に開閉することは許されない。
「止靜」(坐禅)は線香一本が燃え尽きる間の約45分、その間に15分の抽解(經行や二便往來をする)がある。
雪の降る眞冬の最中でも暖房(ストーブ)は無く、また素足で着襪(足袋を履く)は許されない。夏には冷房が無く汗が滴る中で坐禅をする。
また、警策(樫の木で作った棒)で両方の肩をそれぞれ強く三打するのは、雲衲を策勵する臨濟禪獨特のやり方で、見ようによっては暴力的ではあるが、これは古參の雲水が新到の雲水に対する慈悲行であり、そのために打った者も打たれた者も、互いに合掌しあって、決して恨みの念を残さないようように、「警策令」にめ誡められているのである。
このように白隱いらい臨濟宗に於ける修行道場の生活は、極めてストイックに様相を呈している。修行の厳しさは臨濟宗ばかりでなく、曹洞宗に於いても同様であるから、これは海に圍まれ台風や地震に慣れた日本人獨特の精神的風土に由来する日本禅宗の特色であろうか。
この点でも日本の禅林修行の形態は、南方佛敎はもとより中国や韓国のそれと大きく異なっていると言えるであろう。
日本の僧院も、禅宗が到來した頃の五山の大叢林に於いては、禅僧たちの共同生活集團の場であったから、日常生活の規矩にも無理がなく、今日よりもよほど悠然としたものであったに違いない。それが白隱の頃から始まった江湖道場(小叢林)に於いては、臨濟宗の道場は、急速に短期修練の道場へと変質したのであろう。
たとえ短い年月であっても、日常生活の一切を放下し、專一に「公案工夫」に全身心を投入しなければ、「大死一番、絶後蘇生」の見性體驗に到ることはあり得ないという「大信根」を原動力とし、懸崖に手を撤するような「大憤志」をもって 荊棘林中の一路を突き進めば、必ず見性の大歓喜の田地に到ると教えるところに、白隱公案禪の基本的性格が窺えるであろう。
白隱に少し先立って出た雲居希膺(1582-1659)は、禪淨雙修の人で「念佛禪」を擧揚したが、臨濟宗の主流から批判を受け、やがてその法は断滅した。
また雲居に少し遅れて出世した盤珪永琢(1622-1693)は、血みどろの厳しい修行によって『大學』にある「明德」の一語について大悟徹底したが、四衆のための說法には決して単語を用いず、専ら「平語」(民衆の日常語)によって彼独自の「不生禪」を說いたので、盤珪が說法する日には各宗各派を超えた人々が集まり、門前は市をなしたと言われる。しかし彼の門流もまもなく断絶した。
しかるに白隱禪のみが、今日なお世界的な隆盛を見ている理由は何か。言うまでもなくそれは、彼の禅境の深化の明晰性であり、そして何よりも重要な要因は、見性経験の有無を禅者評価の唯一のメルクマールとしたからであることは恐らく間違いないであろう。
「日本看話禪の伝統と変容」に對する論評
戒環(東國大 佛敎學科 敎授)
日本と韓国の仏教は似ているようで、それぞれ異なる面も多くあるので、互に比較研究することによって、将来の発展をはかることができのである。しかしながら、両国の仏教の相互間の研究は順調に進んできたとはいえない。現在の韓国の仏教は曹渓宗が代表しているのに、隣国の同じ看話禅の臨済宗の実態も多くは知らないのである。西村先生はそのような事情を察知して、このような簡にして要を得た文章を私たちのために苦心して書いてくださったのだと思う。
文章の中から、印象に特に強く残った内容を3つにまとめてみたい。
第1に、ここで禅が次のように説明されている。
‘禅は直接に伝達されるものではない。一人ひとりが自己の身上において、ダルマや六祖の禅心を「追体験」するものでなければならない。釈迦やダルマは過去の者ではない。即今目前の自己の脚下に、釈迦やダルマは生き生きと現在も修行中である。われわれ禅の修行者は、自己の存在の底を掘って自己の外に出て、そこに生きている釈迦やダルマや六祖と相見しなければ、禅の伝灯は形骸だけとなって消滅してしまうだろう。’
恐らくこの言葉は西村先生が長い間の研究と実践を通じた思索の末に辿り着いた答えであるのだろう。ひとり禅の修行者だけに向けられた言葉ではなく、仏教者全員が心して自らに問いかけなければならない、含蓄のある言葉である。
第2に、そのような禅を次代に伝えていく上での方策についての先生の考えである。日本の臨済宗が西田幾多郎、鈴木大拙という優れた思想家を得て、早い時代から欧米に発信し、禅の世界的な広がりということで大きな貢献をしてきたことは、私たちも良く知っている。そのような伝統を持つ故に、西村先生の文章には禅宗の将来の発展を模索する姿勢を窺うことができる。それは恐らく、一宗教としての日本臨済宗の布教という意味の上での発言ではなく、禅という宗教のより普遍的な内容の深まりを目指した上での提言と受け取ることができるのである。禅は師家によって伝えられ、その師家の教えを順守して今日まで伝えられてきたものである。そのような過程の中で、かつては同じ禅宗でありながらも、看話禅だ黙照禅だと、互に非難を応酬してきた。しかし西村先生の文章では、看話禅の立場に立ちながらも、黙照禅の曹洞宗を客観的に高く評価している。それだけでなく、自らが所属する臨済宗の弱点を冷静に分析している。将来の禅の深まりと広がりを考える上では、このような身を斬るような歩み寄りが必要なのであり、日本と韓国の禅が互に理解を深めていくことも、この延長線上に成し遂げられていかなければ真の意味での発展性はないと考えられる。
第3に日本臨済宗の歴史と現状に対する説明から得た再認識である。日本臨済宗と言えば、私たちの内で日本の仏教に通じる者でも、その多くは、その宗祖が栄西であり、道元の曹洞宗の純粋な禅と比較して、禅を伝統的な仏教と融合させることによって、権力に近づき宗勢を広げたという程度のことしか知らないのである。それ故に、過去の日本における多彩な禅の歴史や現在の日本臨済宗の禅がすべて大応派の流れを汲む江戸時代の白隠の禅であることを、初めてここで知る者も少なくないはずである。ここで、かつて日本においては‘24流46伝’といわれるような多彩な禅の流派が繰り広げられていたという歴史を知ることは、同様に多彩であった韓国の禅の歴史の上に思いを馳せることでもあるのだ。
以上のようなことを先生の文章から強く感じたのであるが、その中で更に詳しい説明をして頂きたいと願うことが2つある。1つは現在の日本の臨済宗が江戸時代の白隠によってその合理的な公案禅の修行のプロセスが確立されたものであることは理解できたが、それでは白隠の禅と従来の看話禅とは具体的にどのような点が異なっているのだろうかということである。2つめは、臨済宗の寺院が日本に7000もあり、その住持になるためには必ず何れかの僧堂(15の本山と24の地方僧堂)において3年以上の修行生活を送らなければならないとなっているのに、僧堂の雲衲の数が多くて30人、少なければ数人というのはどのような理由からなのだろうか。少々少ないのではないかと思うのである。
ところで、文章の始まりに西村先生は禅の将来への伝承ということについて、次のように指摘されている。
“したがって過去1400年のあいだ仏陀の慧命がどのように伝えられたか、そして今後どのように伝えられていくかということこそが、今後禅宗存立のもっとも重要な課題である。禅宗の教義や思想の内容が問題ではない。それとはまったく別次元において、仏陀の慧命をいかに正確にこの自己の身上を通して「受け取り直す」し、未来に向かって「直伝」していくか。これこそが祖師の門庭に立つものに与えられた根本的課題でなければならない。
このような使命をもって、中国の禅は韓国や日本に伝えられたのであり、またいま欧米諸国に伝えられつつある。これはいわゆる文化伝達のように、国から国へとか民族から民族へと集団的レベルにおいて伝えられたのではなく、どこまでも個人から個人へと、「以心伝心」されて今日に及んだ類いまれな人類の遺産であると言えるであろう。”
全く同感である。西村先生がこのことを私たちに伝えるために、この文章を携えて韓国に来て下さった意味は大きい。‘類いまれな人類の遺産’である禅を正しく未来に伝えるためにも、日本と韓国の禅学者の交流を一層深められなければならないことは言うまでもないことである。西村先生が分かりやすい言葉で日本臨済宗の神髄を私たちに伝えてくれたように、私たちも日本の禅学者に韓国の曹渓禅の歴史と実践の神髄を正しく伝える努力をしなければならないのである。
この度の訪韓を機会に、西村先生にも更に韓国の禅について学んで欲しいというのが私たちの強い願望である。今年9月、統営で初めて日本の公案禅の摂心が行なわれ、近い将来、韓国の禅僧が向岳寺の専門道場に掛塔するという。実に喜ばしいことである。同じように、近い将来、多勢の日本の若い僧侶や研究者が韓国に滞在して、韓国の禅を実体験できるような機会を提供できるようになれば良いと思う。彼らが韓国の禅から学ぶことは実に多くあることを、私たちは確信している。その結果が両国の禅の発展につながることになるとすれば、確かに禅の未来に新しい可能性がまた誕生するのではないだろうか。
13世紀の中国宋代の黙照禅を正しく伝える曹洞宗と、18世紀に日本人の白隠によって公案のプロセスを整えた臨済宗、この2つの宗派を現代に伝える日本の禅には多くの学ぶべきことがあることを再確認しなければならない時を迎えているのである。