福士慈稔▪立正大 敎授
Fukushi Jinin▪Prof.Rissho Univ.
一 はじめに
日本仏教諸師の中で元曉の著述及び名を引く諸師とその章疏は、筆者が概観するところでは64人の104部の章疏にみられる。宗派別では法相宗10師(15部)、華厳宗15師(32部)、三論宗7師(9部)、天台宗11師(17部)、真言宗8師(11部)、浄土宗9師(16部)、そしてその他として時宗・律宗等4師(4部)の章疏に区分できる。これ等の諸師の元曉引用は宗派毎に、または時代毎に引用の傾向が異なっていることが指摘できるのであるが、本発表では特に法相宗に限定して、法相宗に於ける元曉著述の引用の傾向と、そして元曉引用から窺われる若干の問題点を指摘することとしたい。
二 法相宗諸師の元曉著述の引用
法相宗で元曉を引く10師(15部)の内訳は、奈良時代の善珠の4部を筆頭に、明一・平備・常騰・清範の各1部、平安時代の蔵俊の2部、貞慶1部、そして貞慶か、その師の覚憲か、またはその師の蔵俊のどちらかと言われるが定かではないために失名として挙げる1部、鎌倉時代の良算の1部、江戸時代の基辨の2部、以上の10師の15部である。それぞれの章疏名と、その章疏の元曉著述及び名の引用回数は次のようである。
1-善珠(723~97) ①『因明論疏明燈抄』-20、②『唯識分量決』-2
③『法苑義鏡』-12、④『唯識義燈増明記』-2
2-明一(生没年不詳) ①『金光明最勝王経註釈』-1
3-平備(生没年不詳) ①『最勝王経羽足』-2
4-常騰(740~815) ①『註金光明最勝王経』-27
5-清範(963~99) ①『五心義略記』-2
6-蔵俊(1104~80) ①『成唯識論唯量抄』-2、②『因明大疏抄』-17
7-失名(12~13世紀) ①『成唯識論本文抄』-2
8-貞慶(1155~1213) ①『明本抄』-1
9-良算(~1202~) ①『唯識論同学鈔』-8
10-基辨(1718~91) ①『大乗法苑義林獅子吼鈔』-6、
②『因明大疏融貫鈔』-2
以下に各諸師の元曉引用を概観してみることとする
1)。
先ず、善珠の『因明論疏明燈抄』(大正68)では「曉云」・「曉法師云」・「曉師云」と呼び説を引くものが典拠は不明であるが10例(大正68-221上・221中・253下・270下・271下・285中・303上・303下・313上・323下・358中)、現存の『判比量論』は断簡であるため該当箇所がみられないが「曉法師判比量中」・「曉師判云」と典拠を『判比量論』と明記して引くのが5例(同-317上・318上・321上・322中・346中)、名だけを挙げる場合または名を挙げて元曉の意に言及するのが4例(同-287中・321上・322下・358中)、定賓の『理門論疏』からの孫引きと思われるのが1例(同-321上)、以上の20回の引用である。『唯識分量決』(大正71)では現存の『判比量論』にはみられないが「新羅元曉法師判比量論云」としての引用1例(大正71-449下)と「玄奘三藏唯識比量諍過決」の「他不定」の釈で元曉の名を出して言及する1例(同-452下)の2回、『法苑義鏡』(大正71)では「曉法師」として名だけ引くのが3例(大正71-166下・168中・265下)、『金光明経疏』からの引用が4例(同-166下・168中・168下・169中)、 「曉云」として典拠不明の引用が5例(同-168下・169中・175下・178上2回)、以上の12回の引用。『唯識義燈増明記』(大正65)では現存の『解深密経疏』にはみられないが「曉法師深密経疏中」として『解深密経疏』からの引用が1例(大正65-352中)、金剛三昧の解釈の典拠を元曉『金剛三昧経論』であると指摘する一文の1例(同-374上)の2回である。
明一の『金光明最勝王経註釈』(大正56)では『金光明経疏』からの引用と考えられる引用が1例である。但しこの引用は明一が元曉の『金光明経疏』を精読し直接引いたのかは疑問が残る引用である。「眞諦三藏解云」に続き引かれる「又有説云。此経菩提涅槃因果爲宗。究暢本始二果。備顯正兩因。元曉師説」(大正56-717上)とする一文であるが、「元曉師説」に続き「前二師皆有道理。但取一途互有不盡。通用兩義乃無不周。興法師説」とあり「眞諦三藏解云」から以下全て憬興の『最勝王経略贊』または『金光明経述贊』等の関係章疏
2)にみられる一文とも考えられるからである。但し「眞諦三藏解云」以下は、慧沼疏にも「眞諦釋云」として全く同一の文がみられ、また「元曉師説」を「又有説云」として元曉の名を出さず憬興と反対に眞諦と元曉の説を「二倶有過」として批判している一文がみられている(大正39-176下)。慧沼疏では分からなかった元曉説が憬興関係諸疏の記載で分かったのか、それとも明一が実際に元曉疏をみたことによって分かったのかは不明であるが、『金光明最勝王経註釈』での憬興の引用の多さと、元曉引用がこの1例ということから憬興関係章疏からの孫引きとも考えられる。
平備の『最勝王経羽足』(大正56)では「元師云」として2例(大正56-819下2回)の引用がみられる。この「元師」を元曉師から「曉」字が脱落したものとする見解があり、目録類に元師に相当する人物で『金光明経』に対する註釈書を著した者は見あたらず、『法海図記叢髄録』に「相元師」及び「元師」の引用があるが本書引用部分とは思想的にかなりの隔たりがある。勿論、この「元師云」に続く引用部分は元曉の現存著述にも該当箇所はない。ともかくも疑問を抱きながらも元曉引用書として挙げるものである。
常騰の『註金光明最勝王経』(日本大蔵経第三方等部章疏第1)では「曉師云」または「曉法師云」として27例(日本大蔵経第三方等部章疏第1-482下~483上・484上・496上・496下・496下~497上・497下・510上下・515下・516下・521上・523下・527下・530下・533上・533下・542下・543上・550下・553下・554上・555下・558下・563下~564上・564上・619上・650下・668下)の引用がみられる。但し全てに引用章疏の典拠が記されていない。しかも引用は全て現存の元曉著述中にみられないもののため散逸の『金光明経疏』からの引用と考えられる。
清範の『五心義略記』(大正71)では元曉の著述からの引用ではないが、基の『大乗法苑義林章』の解釈で元曉の名を引くのが2例(大正71-278中・284中)みられる。
蔵俊の『成唯識論唯量抄』(大日本仏教全書80)では「元曉對護法宗立量云」(大日本仏教全書80-214上)としての引用の末に「起信論別記有之」とするが現行の『起信論別記』にはみられない引用と、「元曉比量」(同-214上)とする引用であるがその前後の文が現存の元曉の著述では確認できない引用の2例。『因明大疏抄』(大正68)では蔵俊が善珠の『明燈抄』を引き、その中に元曉の引用が含まれているのが7例(大正68-443中・522中・523下・525下・528上中・532上・561中)、定賓の『理門論疏』を引き元曉の引用が含まれているのが1例(同-525上中)、元曉の『判比量論』の引用で現存箇所と一致しているのが3例(同-561中・561下・569上)、『明燈抄』の引用に続き元曉の名を出しているが典拠不明が2例(同-444中・502中)、「元曉和上縁起云」として初出の元曉伝を引いている1例(同-525中)、「判比量論云」として現存の『判比量論』にみられない箇所を引いているのが1例(同-549上)、「相違決定」の作者を定賓や善珠が元曉としたのを批判して元曉に言及しているのが2例(同-525下・668中)、以上の17例である。
失名『成唯識論本文抄』(大正65)では2例で、善珠の『最勝王経遊心決』(三巻)からの孫引きと考えられる引用1例(大正65-561中)、「曉師云」としての引用であるがその典拠が不明なものが1例(同-777中)である。
貞慶の『明本抄』(大正69)では「佛弟子量且不論。今以勝論爲敵者。有何大徳。設不用之有何大失」の問いの答えとして諸説の最後に「元曉師釋云」として1例(69-427下)みられている。
良算の『唯識論同学鈔』(大正66)では元曉の著述の引用ではなく批判の対象として元曉の名を引く例が5例(大正66-109下・110上中・110中・353中・438中)、現存の『判比量論』にはみられないが「元曉居士判比量論中」等として『判比量論』を念頭に置いて引くのが2例(同-229中・289中)、慧沼の判比量批判の孫引きが1例(『成唯識論了義燈』大正43-732上)、以上の8回である。
基辨の『大乗法苑義林獅子吼鈔』(大正71)では『解深密経疏』の引用が1例(大正71-572中)、善珠の『法苑義鏡』からの孫引きが3例(同-582下・586上・589上)、遁倫の『瑜伽論記』からの孫引きが1例(同-632下)、『起信論疏』を念頭に置くものと考えられるものの典拠不明の引用が1例(同-829中)、以上の6回の引用である。
『因明大疏融貫鈔』(大正69)では善珠の『因明論疏明燈抄』で元曉を引いている箇所(大正68-221下~222上)を構成を変えて引いたもの1例(大正69-35中)、『因明入正理論疏』の「恒住堅牢性」(大正44-104下)の解釈で、第一家に円測と定賓を挙げて第二家として元曉を引いたもの1例(大正69-148下)、以上の2回の引用である。
三 法相宗諸師の元曉著述の引用の傾向
これら法相宗の諸師の章疏は、基の『因明大疏抄』『大乗法苑義林章』『成唯識論』、そして義浄訳『金光明最勝王経』に対するものに区分できる。
『因明大疏抄』に対するものは、善珠の『明燈抄』、蔵俊の『因明大疏抄』、貞慶の『明本抄』、そして基辨の『因明大疏融貫鈔』の4書である。前述のように善珠の『明燈抄』には『判比量論』の引用が5例みられ、蔵俊には元曉の引用17例中、7例が善珠からの孫引きであるが、17例殆どが『判比量論』関係の引用である。貞慶は「元曉師釈云」として1例のみの引用で典拠が不明であるが、基辨は2例の引用文に「秋篠引」として善珠書からの引用を明記している。
『大乗法苑義林章』に対するものは、善珠の『法苑義鏡』、清範の『五心義略記』、基辨の『大乗法苑義林獅子吼鈔』の3書である。善珠の『法苑義鏡』の引用11例中で『金光明経疏』からと明記しているのが4例であり、清範の『五心義略記』の引用2例中、善珠の『法苑義鏡』を念頭に置く引用もあるが、それも単なる孫引きではなく独自に精読しての引用である。基辨は引用が6例で善珠の孫引きが 2例みられるが、同時に善珠に対する批判と、基や遁倫の引用を行ってからの元曉に対する批判もみられている。
『成唯識論』に対するものは、善珠の『唯識分量決』と『唯識義灯蔵明記』、蔵俊の『成唯識論唯量抄』、失名の『成唯識論本文抄』、良算の『唯識同学抄』の5書である。典拠が明確なのは、善珠の引用で『判比量論』1例と『解深密経疏』1例、蔵俊は善珠からの孫引きが1例、失名の『成唯識論本文抄』は善珠からと『忠安記』からの各1例、良算は『判比量論』3例というように引用回数も多くなく、また引用書も一定していない。
最後に義浄訳『金光明最勝王経』に対するものは、明一の『金光明最勝王経註釈』、平備の『最勝王経羽足』、常騰の『註金光明最勝王経』の3書である。元曉の引用は、明一が「元曉師説」として1例、平備が「元師云」として2例、常騰が「曉 師」・「曉法師云」として27例みられている。しかし、これらの引用に一致するところはなく、3書の関係を窺うことはできない。また3書とも引用書を明記していないが、明一が憬興の孫引き、平備は不明であるが、常騰は元曉の『金光明経疏』からの引用である。
法相宗諸師の引用の傾向としては、善珠を筆頭に『解深密経疏』・『起信論別記』・『金剛三昧経論』等の引用もみられるが、特に元曉の『判比量論』と『金光明経疏』の引用が行われていることが窺われる。但し、元曉著述の重用度とすれば、善珠と常騰以外には元曉著述の重用度は感じられず、逆に元曉を引いた善珠、または元曉自身に対する批判が窺われる引用となっているようである。
四 引用章疏から窺われる若干の問題点
さて、以上から挙げられる問題としては、先に法相宗諸師の中で善珠と常騰以外には元曉著述の重用度が感じられないとしたが、では果たして善珠と常騰は本当に元曉著述を重用したのか、重用したとすればその原因はどこにあるのか、また他の諸師はどうして重用しなかったのか、そして、諸師の元曉引用例から何かしら指摘できる問題点はないのかということである。
先ず善珠に関しては、確かに他の日本法相宗諸師に比して4書で元曉を引用していて、また引用例が多い。しかし、引用回数からすると、『明燈抄』では慧沼・文軌・玄応・定賓を一次資料とすれば、円測・大賢と同様に二次資料に区分でき、『唯識分量決』でも基・円測を一次資料とすれば二次資料、『法苑義鏡』でも基を一次資料とすれば二次資料、『唯識義燈増明記』でも基・円測・道証を一次資料とすれば二次資料であり、あくまでも二次資料として区分できる引用である。善珠の著述には基系教学に連なる人物ばかりではなく新羅僧の引用も多くみられるが、新羅僧とすれば円測の方が圧倒的に重用度が高い。『大日本古文書』によると善珠の当時に、元曉の著述として記録されるものが40部程確認されるが、善珠の引用で確認される元曉の著述は『判比量論』・『金鼓経疏』・『解深密経疏』・『金剛三昧経論』の4部だけである。法相宗の中で引用が多いとしても、これだけでは元曉重用という言葉は適当でないようである。但し元曉の『判比量論』だけはその引用例から注目していたことが考えられる。それは次のように定賓の『理門論疏』を根拠に元曉が「決定相違」説を製したとして元曉説を引いていることから窺われるからである。
今此決定相違者。本是新羅元曉大徳之製也。後順憬師。得此比量。不能通釋。乾封年中。遣於大唐。令決其疑所以得知。定賓律師理門疏云。新羅順憬師乾封年中。傳彼本國元曉師作。相違決定。來至此國云。眞故極成色。定離於眼識。因喩同此。三藏于時躊躇未釋云云何以得知。本是曉製。彼師判比量論云(以下略)(大正68-321上)
上のように善珠は定賓の乾封年中(666~668)に順憬が元曉の「相違決定」説を玄奘の許に持っていったために玄奘が註釈を躊躇したとするのを承け、その根拠を元曉の『判比量論』に求め、更に「既言今謂。述其比量。故知彼師所製量也云云」(大正68-321中)としているのである。しかし、この「相違決定」元曉作製説は蔵俊の『因明大疏抄』によって
相違決定作者并由來。依諸文記之。抑定賓律師云三藏于時躊躇未釋者。尤謬也。何者。三藏麟徳元年二月五日入滅。送違決於大唐之事乾封年中也。麟徳經四年之後。以爲乾封元年。三藏入滅之後。經四個年了送大唐。何云三藏躊躇哉(大正68‐525下~526上)
として、玄奘が入滅したのは麟徳元年(664)であり憬興が玄奘の許にいったのは玄奘入滅の4年後であるとし、更に「子嶋云」及び「清水上綱云」とし「違疏問之詞失」を承けて「違諸師之失。所謂元曉師等也」として否定されるのである。『因明大疏』の引用章疏に依ると「相違決定」説を元曉作とするのは定賓と善珠だけで、その二人の見解は善珠以後の諸師によって完全に否定されている。先述のように良算の『唯識論同学鈔』の頃には「相違決定」説を元曉のものとせずに、順憬説とする章疏を引いて順憬批判をし
3)、慧沼の判比量批判の孫引きをして、元曉は批判の対象となっている。恐らくは慧沼の批判を承けて、定賓とそれを引いた善珠を誤りとするのが定説となったため、以後元曉の著述は他宗に比べて引かれなくなっていったものと考えられる。
常騰に関しては、『註金光明最勝王経』では確かに散逸の『金光明經疏』からと考えられる引用が27例みられ、他の諸師よりは元曉の重用度が感じられる。しかし、現行本の引用頻度としては「興法師云」として150回以上引用される憬興と、「荘師云」等として85回程の勝荘、「沼法師云」・「沼疏云」として70回程度の慧沼の順である。憬興の方が引用が多く感じるが、しかし慧沼の名を出さない箇所で慧沼の『金光明最勝王経疏』を用いている。よって全体的に慧沼に倣い、その証左として憬興、「勝師云」・「荘師云」または「薦福云」として新羅の勝荘の『金光明最勝王経述記』、「曉法師云」として『金光明経疏』、というように新羅僧の著述を用いているようである
4)。元曉が27回、「纂決云」
5)として23回、「志徳師云」として13回程度、 「基師」・「慈恩法師」として13回程、「眞諦云」等として13回程度、その他に貞法師、明一師、そしてそれ等以外に数部の章疏の名がみられるが殆どが2・3回の引用である。このように元曉の引用頻度は4番目で二次資料として区分できるものである。法相宗での『金光明最勝王経』の註釈書の中では先行の明一や平備と異なり、直接に『金光明経疏』を手にしての引用というこことは知られるが、重用と言う言葉は相応しくないようである。
法相宗で元曉を引く『金光明最勝王経』の註釈書から窺われるのは元曉よりも憬興と勝荘の引用の多さである。明一の『金光明最勝王経註釈』は題名に割り注で 「多用沼疏少取余説」とあるように慧沼の『金光明最勝王経疏』に依拠したものであり、序品第一に『金光明経』の註釈書の撰者として勝荘・恵(慧)沼、そして新羅の憬興の名を挙げ、本文中では「沼公云」・「沼公判云」・「沼公疏中」等として慧沼を引くこと大略55回、「興公云」等として憬興を引くこと32回ほど、そして勝荘は「荘公云」として15回ほど、他の諸師は真諦が10回ほど、それ以外は全てが数回の引用である。引用回数では第一が慧沼疏で第二が憬興の『最勝王経略贊』または『金光明経述贊』等の関係章疏であるが「自下諸文沼公不釋。今拠興公釋文」として憬興に従っている箇所がしばしばみられ、憬興に関して言えば重用という言葉が相応しく思われる。次に平備の『最勝王経羽足』では註釈に際して第一に依ったのが「照師云」・「照師疏云」等として50回程引用する照法師の著述である。この照師とは引用文を対照したところによると慧沼のようである。咀嚼引用している箇所もあるため即断できなかったが、対照の結果かなりの箇所が慧沼の『金光明最勝王経疏』と一致していることが判明する。次が「基師云」や「基師枢要」として15回以上引く基、第三が「興法師云」・「興師文」として10回以上引く憬興と、同じく10回以上引用する文備である。勝荘は回の引用しかみられないが、憬興は三番目に引用回数が多い。常騰の『註金光明最勝王経』に関しては先述のように引用回数に関しては150回以上引用の憬興が第一で、85回程の勝荘が第二である。よって法相宗の元曉引用がみられる『金光明最勝王経』の註釈書に関して言えば元曉の『金光明経疏』の重用度はみられず、恐らくは憬興が元曉を引用していたことにより副次的に引くようになったものとも考えられる。全てが散逸しているが、憬興の関係章疏に関しては金相鉉先生の詳細な研究が発表されている
6)。今後、金相鉉先生の研究成果を参照にしつつ、諸師の章疏に引かれる憬興と勝荘の逸文の再整理を行って考察していきたい。
次に法相宗諸師の元曉引用章疏の整理を通して問題としたいことは、清範の『五心義略記』での元曉引用である。『五心義略記』は基の『大乗法苑義林章』の「五心章」を註釈したもので元曉の引用は他の諸師に比べて少なく次の2例であるが、
1-章。此中有義五識唯二至許亂生故解云。此第三師義也。泰法師・曉法師偏任瑜伽文不知細相作此説也(大正71-278中)
2-章。有人説言至違教理故解云。破非也。問。有人者誰人乎。又所立理何。答。義鏡云。元曉師等亦用此義云云 興記云。當於曉法師義。此師義率爾心後亦有不起尋求即起決定。以何得知。有教有理(同-284中)
以上のように、1で基の引く「第三師義」
7)が神泰と元曉の説とする清範の指摘、そして2では基の引く「有人説」
8)が善珠『法苑義鏡』の元曉等がこの義を用いるとする一文、及び『興記』の当に元曉の義であるとする一文の引用により、基が元曉の著述をみて、またそれを引いて批判していた可能性が浮かび上がる。恐らくは憬興の著述と思うが確証がないため『興記』が何を指すのか不明であるが、少なくとも清範と『興記』の作者はそのように考えていたことが知られる。これに関しては今後、更に詳細にしていくつもりであるが、ともかくも、基が元曉を引いて批判していたとすれば、慧沼の、そして善珠以外の日本法相宗諸師の元曉に対する態度も説明できるのでないかと思われる。
五 結語にかえて
日本法相宗で元曉著述を引用する章疏の数は他宗に比して決して少なくはない。しかし、それぞれの章疏での元曉引用例が少なく、引用例が多い常騰の『註金光明最勝王経』でも他の先師の引用に比すると引用は少ない。元曉に唯識関係の著述があるにも拘わらず、法相宗諸師の章疏の中で元曉の著述を重用、または依拠しているものはみられず、逆に批判のために引いている例が多くみられる。これは善珠が定賓の『理門論疏』を根拠に「決定相違」説を元曉作としたことに原因があるものと考えられる。元曉が「決定相違」説を作製したということは子嶋(真興935~1004)や蔵俊によって誤りを指摘され、良算の頃には順憬作製説が定説となり順憬批判が行われている。つまり玄奘が註釈を躊躇したとされる「決定相違」説自体が定賓と善珠以外からすれば批判すべき存在であり、製していなかったとしても先ずは作者とされたことが一つの原因となり、そして元曉の『判比量論』が慧沼によって批判されていること、基も『大乗法苑義林章』で元曉を批判していると考えられたこと、これ等が合して善珠以降の基教学を重視する日本法相宗にとって元曉が批判すべき対象となってしまったのではないかということである。今後、基と慧沼の著述を更に詳細にして考察してゆきたい。
1) 日本法相宗諸師の元曉引用例に関しては拙著『新羅元曉研究』(大東出版社、2004年2月、301~325頁)を参照されたい
2) 憬興の『金光明最勝王経』に関する註釈書は『高山寺本東域傳燈目録』には「最勝王経略」贊五卷憬興興師先撰金光明経述贊(73項)とあり、『佛書解説大辞典』では『金光明最勝王経略讃』は缺本となっているが『最勝王経略贊』は存とある。しかし、所在が記されていない。『韓国仏書解題辞典(国書刊行会、1982年,40·41項)では日本の目録類の整理から『最勝王経疏10卷(或いは5卷)失、『金光明経述賛7巻失、『金光明経略意1巻失とし、『金光明最勝王経略贊5巻存として「現在、本略贊は大正新修大蔵経刊行会に未収録本として所蔵されている」としているが、筆者は未だ眼福の機会を得ないでいる。よって幾つかの章疏があり、明一の引用書が確定できないため「関係章疏」とするものである
3) 順憬批判の箇所は『唯識論同學鈔(大正66-232中下·426下~427中·428上)等々にみられている
4) 薦福を冠する僧侶は多いが、薦福が新羅の勝荘であることは、義浄訳の『成唯識寶生論』に「翻經沙門大薦福寺大德勝荘證義」(大正31-81上)という一文と、『註金光明最勝王経』中に「薦福法師親問三藏」(347上)という一文から 義浄との関係を窺い、また『東域傳燈目録』に「最勝王經疏八卷伝述記大薦福勝荘師撰」(高山寺本、73頁)とあり薦福寺勝荘に『金光明最勝王経』に対する註釈書があることから推察するものである
5) 『纂決』の作者に関しては、『註金光明最勝王経』に「纂決三卷利員撰(58下とあるが『東域傳燈目録』には(金光明最勝王)経纂決三卷分成六巻 凝撰未見」(高山寺本,74項とあり作者が一致していない
6) 金相鉉「輯逸金光明最勝王経憬興疏」(『新羅文化』17・18合輯、2000年、新羅文化研究所
7) 基『大乗法苑義林章』では次のような一文となっている。
此中有義五識唯二。但有率爾・及等流心。尋求等中五隨生者。即等流心許亂生故(大正45-256中)
8) 『大乗法苑義林章』の「有人説」の該当部分は次のようである。
有人説言有率爾後不起尋求者。不然。違教理故(大正45-257上)