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生き方の姿勢が幸と不幸を切り分ける事。外的状況から逃れて日常に感謝するべき

Name : admin
Date : 2008.12.09
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生き方の姿勢が幸と不幸を切り分ける事。外的状況から逃れて日常に感謝するべき


吉祥寺 前 會主 法頂和尚

 

 

お元気でしたか。この頃爽やかな天気で生きていることが今更有難く幸運だと思われます。私は連日のどかな秋日和のお陰で楽しい日常を過ごしています。特に、洗濯物を干す時は詩人徐廷柱の‘青き日’という詩が自ら口元を低迷します。

“眼まぶしく青き日は恋しい人を恋しがろう。/あそこのあの秋の花の緑に疲れて紅葉になるが/雪が降るとどうするだろうまた春が来るとどうするだろう/私が死んであなたが生きたらあなたが死んで私が生きたら/眼まぶしく青き日は恋しい人を恋しがろう。”

このようにぶつぶつと詩を吟ずると心が豊かになり楽しくなって生きることが今更有難く感じられます。清明な秋の日、詩を吟じていると心がとても奥床しくなります。詩は言語の結晶体としてその中にはわが国の言葉の魂が生き残っています。またわが国の言葉の美しき顔が透明に現われます。たまには忙しい日常であっても必ず詩を詠むことを勧めます。

最近私たちの周りはうんざりして腹が立つニュースで満ちています。米国発の金融危機、為替事情、ファンドと株の暴落、お米の直払金の不正受領など聞こえるニュースごとに私たちを凄く欝にさせます。一から十まで全てが経済の話ばかりです。経済を回復させるために出た人たちが経済を回復させるどころか騰落する経済にうろうろしている状態です。

口を開くと皆‘経済’ ‘経済’と言いますが、果たして我々は持っていることと同じく幸せなのか自ら問うべきです。たくさん持っている人はその分幸せでしょうか。それともたくさん持ってない人は不幸でしょうか。このような質問を自分自身に問い投げてみるべきです。外部的な条件のみを持って幸と不幸を言い分けることはできません。持っているものが多くても生き方が分からなければ不幸であり、持ち物は少なくても生き方を分かっていればいくらでも幸せに生きられます。

外部の現象が人生の全てではない

幸と不幸は外部的な状況や条件のみにあるのではなく、内的な受容の可否即ち受け止める人生の姿勢によると言えます。最近のニュースに巻き込まれると、我々自身が矮小になりとても無力になります。外部的な現象だけが人生の全てではありません。経済ばかりを言っていますが経済が人生の全てではありません。目を内に向けるとより肯定的で美しく芳ばしい領域はいくらでも存在します。しかし、目の前の現実や日々流されるニュースばかりに耳を傾けると人生そのものがくだらなくなってしまいます。そのような外圧に抑圧されると我々が持っている潜在力と可能性を言い聞かせようとしなくなります。そうするから生きることすら耐えられず苦しくなります。

昔の人々が生きてきた跡を察してみると、後代の我々がどのように生きるべきか本当に学ぶことが多くあります。約250年前、ソウルを背景として活動なさった張混(チャン・ホン)という先輩がいました。彼は仁王山の麓にみすぼらしい家を一軒買って、'一生の望み'という文を通じて、彼が望んで計画を立てた理想的な人生を一つ一つ記述しました。その中で彼の8つの‘清らかな福’に関する内容がもっとも印象的です。

張混は8つの清らかな福について、第一は、太平の時代に生れたこと、第二は、ソウルに住んでいること、第三は、士(学者)として生れ教育を受けられたこと、第四は、文字の理解ができたこと、第五は、山水のきれいな一カ所を手にいれたこと、第六は、100本のお花と樹木を持っていること、第七は、気の合う友人がいること、第八は、良い本を持っていることなどを取り上げました。

張混は文を読めるし、良い友人と本を持っていて自然とともに暮している自分自身が幸せだと紹介しました。本当に素朴な幸福です。

私はこの文章を読んで私自身の清らかな福について考えてみました。

第一に、私には師匠と友人になる何冊の本があります。私が山の中にて一人暮らしをしても気がくじけなく、毎日新たになるのはその本が支えてくれるからです。第二は、ひもじくなるか退屈になろうとするとき飲むお茶があります。お茶は私の人生の清らかな余白と同じです。第三は、固くなる生活に弾力をあたえる音楽があります。また私の手を待っている菜園があることが今更に有難く感じられます。本とお茶、音楽と菜園は私の生活が錆びないように支えてくれるとてもありがたい存在です。

蘇東坡は‘赤壁賦’にこのように書きました

“あの江の爽やかな風と山の明るい月よ/ 耳で聞くと音になりで見ると明かりになるな/ 持とうとしても引き止めるものなく使おうとしても使いきれず/ これは天地自然の無尽蔵なり。”

自殺は自害の業のみを取り加え

このようなことは我々の周りにも数多く存在します。しかし爽やかな風と明るい月を楽しめる人は多くありません。江と山は元々主人がいません。それを見て感じながら楽しめる人が江と山の主人です。を外ばかりに向けるから外部的な状況やわなにかかってこのような事が見つからないのです。

このように良い日自ら自殺をする人がとても多いと聞いています。この日を耐えられなくて自殺する人が一日に30名もいるそうです。決して誇らしい統計ではないが、韓国の自殺率が世界経済協力開発機構(OECD)の国の中一番高いと言います。

命ほど貴重なものはありません。取り戻すことのできないたった一つの命です。なのにそんな命を切り捨てています。今この瞬間にも病院ではただ何分でも生命を引き延ばすために酸素呼吸器を外せない患者がたくさんいます。この尊い命を自ら切り捨てることは恥ずかしいことです。自ら自殺をしても決して苦痛から逃れることできません。死は終りではなく、異る人生の始まりであるからです。

自殺は本人を害する自害行為で業となり、輪廻の連鎖となりまた苦痛に繋がります。結局自殺は自害の業のみ加えることに過ぎないです。見て聞いて話す全てのことは業となります。これは決して一回で終わりません。慣性の法則のように習慣となり、業力となって業障に繋がります。

自殺の衝動は誰もが感じられます。しかし、時間が経つとその原因は苦悩に囚われて脱することができなかったためであることが分かります。苦痛は長続きしません。晴れ日があれば曇りもあるべきです。我々の人生は常に流動的で固定的ではありません。外部的な条件のみならず考えも変わります。絶えず続くそうな絶望感も一時です。

この間自殺で世間を驚かした人々も孤独な一時のわなから逃れて清い精神で人事を広く察してみることができたら、その一本気の考えから逃れてより広い目で自分自身の人生を新しく始めたかもしれません。それだけだというひたむきの固定観念から逃れなくて悲惨なことを起こしてしまったのです。皆さんも一時の思いに囚われて倒れてはいけません。何度も言いますが、全ては固定されているのではなく常に変わります。

苦難に当たると一人で解決するな

苦難に当たった場合一人で解決しようとしないでください。一人では一方的な固定観念から逃れがたいです。親しい親友と会うかそのような親友がいなければお寺や教会に行って解除しなさい。お寺や教会のはいつも開かれています。宗教はそのような諮問に応ずるために存在します。もしも自殺する前に良い親友や師匠と会えたらそのような悲惨な結論には到達しないでしょう。

人間は生きる分だけ生きて命が尽きましたら誰でも体を変えます。お釈迦様でもお釈迦のお祖父さんでも永遠に生きる人は一人もいません。極端の衝動により身を捨てるとより良い人生があるかと思っても、実はその業のくずが次の生まで付いてきます。業力というのはそんなものです。我々は生きていることにいつも感謝しなければなりません。

我々はそのありがたさを世界と分かち合うために生きています。良い秋を迎えられますように。



この説法は吉祥寺の前会主法頂和尚が10月19日ソウル吉祥寺にて秋の定期法会の際大衆に説いた説法の内容を要約し掲載したもので、法寶新聞 972号[2008年11月03日]名法問名講義の記事です。

 

 
 

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